本記事のタイトルはなんだか噛みそうですが、それが、これから紹介する古代村の中国語称号だと言うので、そのまま使わせて貰います。写真は「毎日頭条」から引用させて頂いております。

    アイキャッチ画像は、中国陝西省にある「党家村」の一部です。これが約700年前から何度かに亘って建て増した村で、ほぼ完全な形で現在までに残り、今も一部の村民が住んでいる生きた古代村です。「党家村」の概要は百度百科にも載せてありました。

    勿論ただの古代村と言うだけではなく、当時の豪商二家族が共同で築き上げたものであり、中国古代建築の神髄である四合院を始め、古典的な木彫り装飾、青レンガ彫刻、風水学に基づく住宅位置、方向決め、精神哲学、生活文化のスタイル、生活用品の隅々までに亘る中国文化のエッセンスがこの1つの村にほぼ集められていました。

    そんな歴史的な価値がある村落は、なんと知識人が殆ど革命され、皮肉にも残った中国人自身がそんな価値すら知らないままでいました。1986年より、日本の九州大学が西安冶金建築学院と共に、2度にわたる精密調査を経て、1991年、調査団団長の青木正夫教授が執筆した「党家村」によって、その歴史的価値が周知され、現在世界中に注目されるようになりました。中国政府が「党家村」を国家重要文化財として、保護策を取ったのが2001年のことです。


「党家村」の歴史と概要

    「党家村」の党は共産党の党ではなく!ただの苗字でした。1331年に党恕軒と言う人が飢饉を逃れ、現在の「党家村」の場所にやって来ました。まだ誰も住んでいない土地で田を耕し、収穫したものを売って、なんとか生活を営む事ができ、隣村の女性を妻に迎える事もできました。孫の代になると、役人試験に合格する秀逸な人材が現れ、そこから党一族が定住できる村の建設を計画したとの事です。

    そもそも党のご先祖様とされる党恕軒の流れ着いたこの土地は、風水的に非常に良いとされ、東3.5km離れた所に黄河が流れていて、西1.5km先に国道(当時は舗装の無い道)があり、周囲は山に守られ、谷原の形状はひょうたんに似ていると言います。ひっそりと息づく事ができ、中国歴史における「戦い」からなんとか避ける事ができました。

    明朝嘉靖の時代(1522~1566)に、党一族の娘と結婚した賈伯通と言う人が、村で同居する事になり、そこから、党(トー)一族と賈(ジャー)一族が脈々と村に定着し、約700年の間に24~25代続いたそうです。

    重要文化財として認定される時、村には320戸世帯約1400人余りの人口があり、建物には、四合院約124戸、ご先祖様を祭る殿堂約11棟、やぐら25棟、他に寺院、舞台、文星閣(風水塔)、展望楼、砦、節孝碑などがありました。

    この党一族と賈一族は数百年に亘って、共に協力して商売をしていました。乾隆時代(1735~1795)に二家族は正式に商号を「合興発」と決め、本格的に大儲けをして行きます。二家族ですが、基本家族経営であり、儲けはどの家にも配当されていました。互いに信じあえる故に、協力しあって、成功を収め、道光~咸豊の時代(1796~1861)では、党家村の黄金時代を迎え、本格的に村の立て直しが始まり、後の時代まで自慢できる四合院を数多く建てました。

    観光資源化された今、そのサクセスストーリーを知った人々は、この「党家村」をパワースポットであると信じ、毎日、自国民だけでも膨大な数の観光者が訪れています。そして、観光者が購入する特産物やお土産だけで、村民は都会並みの収入を得られ、中国の国民も、現地の村民も口揃えて、ご先祖様が素晴らしい文化遺産を残してくれましたと言います。

    党家村の四合院は一度に建てたものではなく、徐々に建替えたもので、建てる時期によって様式が異なり、各時代の各様式の建築技法が1つの村落で見られる為、特に歴史的価値が高いと評価されています。

    現在は観光ツアーで行けるようになっていますが、もし個人で行くなら、位置の参考として下記を載せておきます。

所在地:中国陝西省韓城市西荘鎮
交通:   西安まで飛行機がり、西安駅から韓城駅まで列車がある
              韓城駅からは路線番号101のバスががある
        

「党家村」に建てられている四合院












    村にある四合院はそれぞれの特徴があり、各時代によって建築の装飾も異なります。細工の細やかさは中国古代芸術の特徴でもあります。

    ガラスが無かった時代ですので、格子窓に紙を貼り付けて窓にしていましたが、その窓格子も時代ごとに変化があります。また断熱とセキュリティー性に気を配ると、室内の採光はどうしても行き届かず、日当たりやコミュニティーの為には、中庭が非常に合理的であったと言う事です。

    党家村の四合院は平均して面積が約260㎡、殆どが長方形をしており、各地の四合院のエッセンスを取り入れ、「全歓四合院」と言う俗称があります。一般的に「上倉下房」の二階建てで、上が収納、下が生活空間と言うスタイルです。個別に正方形の四合院もあり、角印に例えて「1本印」と言う俗称があります。また、それぞれの四合院には、豊かな民間芸術、民俗文化が集められていました。

700年前の建築に使われた装飾や細工の特徴












    ヨーロッパに似たデザインの装飾もありましたね。あの時代の文化交流があったとは到底考えられませんが、装飾に対する思考の進化は同じ人類の傾向なのかなと、思ってしまいます。

    党家村の建築装飾は殆どが風水にまつわるものであり、700年前から既に、屋根の上の彫刻や門構えの両脇に獅子や鼓など、魔除けや守護神として設置していましたが、ただ設置しているだけでなく、その細工の細かさと真に迫った表情や姿は、芸術性の高さを表していると思います。

    個人的に寝台もすごく気に入りました。デザインも素晴らしく、扱い方次第では、部屋のインテリアにもなり、わざわざ一部屋と取る必要がなくなります。そう言えば、最近空港や温泉施設に取り入れられたスリープボックス、根源はここにあるのではないかと思うほど、寝台は先進的なアイテムであると、筆者の目には映りました。

    他にも多くの彫刻図案があり、常に「福、禄、寿、喜」と言うテーマに沿って、権力を奪い合って殺し合う勢力とは別に、本来の人生にあるべき生活の姿勢、平和で安定な暮らしへの願いがここに込められていました。風水を信じ、祖先を敬い、家訓を守る事で、また逆に守られて、古代村はこれまで生きて来ました。

村社会に必要な公共施設の建設    

    明清の時代に村を建て替える際は、必要とされ公共施設も同時に建設されました。


    こちらは村のご先祖様を祭るお堂です。


    こちらは村の中にある寺院です。



    六角形に建つ文星閣と言う村の風水塔です。塔の中には孔子始め、10人ほどの偉人を祭っていました。



    こちらは「看家楼」と言って、村の全貌を確認できる、言わば展望塔のような役割をしています。物見塔と言う方が近いかも知れません、勿論村全体のセキュリティの為にあるものです。


    こちらは村の「節孝碑」です。説明が長くなるので、省略させて頂きます。


    村にある学校です。


    こちらは「惜炉」、お金に似せた紙を燃やす炉です。村の亡くなった先祖が向こうの世界で生活に困らない様にと始まった宗教的な考え方で、中国全土乃至台湾にも同じ風習があります。つまるところ、先祖を敬うものです。


    こちらは村の井戸です。ちゃんと屋根付きの建物を作って、生活用の大事な水を守っていました。賑やか生活風景が目に浮かぶようです。

    残念ながら、やぐらと舞台は文化大革命の時期に壊されてしまいました。戦乱を潜って来ても、革命を洗脳された血の気が多い連中には、村も逃れられませんでした。壊されたのがやぐらと舞台だけで、村にとって幸いであったと言えなくもないです。

「党家村」のセキュリティ


    四合院と言う造り自体が外壁で囲み、セキュリティをかなり意識した建築方法です。党家村は更に村全体を壁で囲んでいます。その上やぐらや物見塔があり、推測するには、数百年前から村で自衛できるグループを組織し、村の護衛をしていたでしょう。


    古民家の間にはすれ違うほどの幅の石畳道が入り組んでいます。特徴的に石で積み上げた上からレンガで壁を作っているので、相当に頑丈です。迷路の様に入り組んだ細道によるセキュリティ確保はヨーロッパの建設でも、見られる傾向です。


    四合院の門前には馬のたずなをくぐらせる為の石柱などがあり、乗馬できる人と言うと情報伝達もしっかりやっていたでしょう。乱世の中に生きる豪商にとっては、情報ほど重要なものはないじゃないでしょうか。



    外に繋がる門構えはそうとう丈夫にしていたと推測できます。






    もう、すっかり観光化されていますw

「党家村」の教育と哲学


    「耕読」とは、耕しながら勉学する事であり、中国の長い歴史の中で形成された一種の哲学です。古代人は学ぶ事を知ってから労働者を軽蔑するようになりますが、後に労働しなければ生きる事が出来ない事実をまた学んだのでした。


    門の上にある彫刻「安详恭敬」は古代の子供への教えから来たものです。安=「安定而不轻躁」落ち着きを払って軽々しく行動しない事、詳=「详审而不疏率」そそっかしく判断せずに良く吟味する事、恭=「表现要谦恭」態度には謙虚さがあって礼儀正しい事、敬=「心里要有所敬畏」心には畏敬の念を持つ事、日本にも伝わる教えですよね。


    「党家村」全体に12もの私塾があったそうです。如何に教育と文化を重視し、尊ぶかを伺う事ができます。

    このレンガ彫刻には、「言有教,动有法,昼有为,宵有得,息有养,瞬有存」と刻んであり、言動には教育的意味とルールがあるべきものであり、昼に働き夜に経験の成果を静かに考えるべきものであり、休憩できるときは体を休ませ、一時でも外遊して良からぬ影響を受ける事がないよう、と言う意味です。宋の時代の思想家である張載の教えです。


    ある家庭の教訓として貼ってある「四無」もぜひ紹介したい内容です。
    「无益之书勿读」= 無益な書物は読むな
    「无益之话勿说」= 無益な話はするな
    「无益之事勿为」= 無益な事はやるな
    「无益之人勿亲」= 無益な人に近づくな
    村人はこの教訓で幸せの近道を見つけていたでしょう、このカオスな時代に、「四無」は我が家でも教訓としたいものです。


    古民家の建築様式以外に、沢山のことをこの「党家村」から学べる事ができました。血生くさい万里の長城よりも、出来る事ならいつか現地へ行って、悠久な歴史をこの肌に感じて見たいと思いました。